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God is in the Details

神は細部に宿る

BRAND CONCEPT

ゴールデンレシオのプロダクトは、基本構造としてシンプルである。
作り手によって考え絞り出された、必要最低限の構成パーツで成り立っている。
構成するパーツが少なくなるということは、デザインポイントが少なくなるとも言える。
ある意味つまらないものになる可能性がある。
しかし、その限られた部分の中であっても、『我々の色』は表現出来ると考える。

例えば、切り替え線(縫い目)の選定。
一本の切り替え線。切り替え線は、プロダクトによるが無限大に選定できる。
しかし、使用用途や人体構造を考慮するとどの位置が適切か?表現したいものはどのようなものか?
熟考すれば必然的に一つに絞られる。
なんとなくそこにあるのではなく、理由があってそこに存在するのである。
同じただ一つの切り替え線であっても、なんとなく選定した場合とは意味合いが全く違う。
そのように選定されたものは、そこに存在するだけで意味があり、美しいと思う。

ゴールデンレシオは、その熟考のうえ選定された数少ないところを徹底的に魅せる努力をする。
仕立ての良さは当たり前として、時に装飾的に、時に温もりを与えて、かつ強靭に仕上げる。
私たちが考えるシンプルとは、装飾性や温もりも兼ね備えたこのような概念である。

デザインにおいても、設計においても、縫製においても、
微差な配慮や気配りや拘りは、各々単体で見れば存在感の薄いものである。
しかし、その微差の積み重ね、集合体となれば、プロダクトとしては普遍的なものであっても、
そのものからは訴え掛ける魅力的な力が溢れる。そう信じている。

BRAND STORY

エンジニアでありテストドライバーであった父の影響もあって、幼少の頃からか、車や乗り物、重機、機械、工具等、メカニカルなものが大好きであった。当時目にした世界最高峰の自動車レースであるF1のマシンや、GTカーなどの速さと美しさに魅せられた。洗練され、考え抜かれたパーツ類。設計者の美的センスによる装飾性も加わっているだろう。そのバランス感に惹かれてしまう。速くても、見た目が美しくないマシンには興味が湧かないのである。
メカニカルなものに美的感覚を擽られた。

小学生の頃は、図工室の自分が使っている電ノコの後ろに、列がいつもできるほど手先が器用な少年であった。ラジコンを作らせれば、ボディのみならず見えないシャシーまで拘り、美しく、綺麗に、統一感も持たせて作っていた。
高校生の頃には、ファッションに本格的に興味を持ち始め、文化祭では見様見真似で服を作り、ファッションショーをするようになっていた。

高校生活での経験から、さらに服作りを学びたくなり、服飾学校へ入学することになる。
プライベートでは、借金してでも洋服を買いまくり、ハイブランドで身を固めた学生であった。もちろん授業では服作りをそこそこ真剣にやっていた。
やはり、洋服作りは楽しかった。しかし、布帛という素材がどうも自分に合わない。
ミリ単位、時には1ミリ以下の数値に配慮し型紙設計をするも、布帛は曖昧なものであり、その配慮に応えてくれない。
裁断した時点で、数ミリ必ずズレが生じる。気持ちが悪かった。
それに加えて、幼少の頃よりアレルギー体質で、布帛、特にウールは裁断時に繊維のカスが宙を舞う。それが自分に合わなかったのだ。

そんな時に出会った素材が革である。ときめいた。

革の素材にもよるが、ミリ単位の配慮にちゃんと応えてくれる。
元図工名人で元ラジコンマニアとしては、うってつけの素材だった。服作りではあるが工作である。

18歳、ここから革と共に人生を歩むこととなる。
まずは、オールミシンメイドの革ジャンを作った。それはそれで良かった。
しかし、専門学生3年目20歳を越える頃になると、そんなマシンメイドの革ジャンに物足りなさを感じた。
専門学生3年の頃には、革ジャン製作と並行して、授業ではビスポークスーツの技術を学んでいた。
それはそれは凄い工程数の多さと、必要な技術力の高さに驚かされた。
平面である素材が、どんどん立体形状になり、人体形状になっていくのだ。
ある意味鎧だ。構築的美学を感じてしまった。
そんな世界を知ってしまってから、量産型既製服がつまらないものに感じた。

量産型既製服の技術で仕立てたレザージャケットは、その時の自分にとって物足りなさを感じて当たり前だった。
スーツの世界には、技術力や時間を惜しまず費やす、こういったビスポークテーラーの世界がある。
靴や鞄にも、このような生産効率を無視した、ただ最高品質を求める世界がある。
しかし、レザージャケットにはそこまでを求める世界が存在しなかった。
でも、自分が表現したい、創り出したいものはそういうものであった。

ミシンメイド、マシンメイド、量産型既製服を否定しているわけではない。
量産の技術も素晴らしい。ある一定のクオリティーを維持し、物凄いスピードで仕上げる。
これは、並大抵の技術力ではない。企業努力、技術革新の賜物である。

理想のレザージャケットを製作すべく、色々と試行錯誤を繰り返した。

例えば、アイロンワーク。
ビスポークスーツの仕立てで重要なのは、アイロンワークとしつけである。
しつけのようなことは革でも出来る。しかし、アイロンワークは使えない。革が火傷するのだ。
アイロンワークが使えないとなると、それを補う型紙設計が必要であった。
平面である革を、人体の難解な曲線の連続に沿わせていかなければならない。
それこそサイエンスの世界である。人体構造を理解し、『イセ』という技術を用い曲線を構築する。
『イセ』とは寸法が違うもの縫い合わせ、立体形状とする技術である。
この『イセ』分量の限界値が、ミシンと手縫いだと違うのである。
理想の立体形状を構築しようとするならば、手縫いを選択するしかなかった。

ジャケットや小物もそうであるが、ただ手縫いを選択しているわけではない。
単純に、どちらを選択したら自分が表現したい理想に近づくか。それでしかない。
だから、ミシンももちろん使用する。自分の中での適材適所である。

色々と試行錯誤を繰り返し、適材適所で違うジャンルの技術を取り入れ、問題を克服していった。
トライアンドエラーを繰り返し、ゴールデンレシオとして1着目のレザージャケットが完成した。